阪神・淡路大震災から20年

2015年01月17日(土)06時00分
                 
もう20年か。

あの頃は、唯一、正社員雇用で働いてたな。

当地では、震度3だったかな、長時間の横揺れで目覚めた。

JRの土木工事業者と取引があった関係で、神戸に呼ばれるかもしれないから、いつでも行けるように準備しておけと会社から言われ、

地元の警察に、緊急車両通行許可証の申請をした。即時発行され、神戸までの高速道路(阪和道と阪神高速湾岸線)は無料通行できる というものだった。

震災当日は、動きはなかったが、翌日、神戸派遣の話がきた。
先遣派遣で行ってる、工事業者の作業員の食料を運んでほしいという話だった。

軽四貨物に、積めるだけの弁当、お茶等々を積み込んで、当時約2時間半で行けるはずの道のりを、15時間かけて届けた。

朝、出発して、灘に到着したのは、日付が変わってた。

被災者の食料ではなく、工事業者の食料運搬だった。

今のような携帯電話が普及していない頃、アナログのでっかい移動通信機が唯一の通信手段だった。

翌朝まで待機して、一旦、当地に戻ったが、その翌日から、激務だった。

神戸に、24時間勤務で7人の派遣が命じられた。

通勤は、道路の混雑を避けるために、深夜3時に会社を出発し、朝5時に交替して、朝7時に帰社するという、過酷な条件だったが、効率が悪いので、48時間勤務班と24時間勤務班に分けてシフトを組んだ。

いつ、崩落しても不思議ではない、JR高架を監視するという業務で、余震の度に、生きた心地がしなかったのを、今でも覚えてる。

48時間連続勤務をして、24時間の明け。そしてまた48時間連続勤務をして、24時間の明け。

若かったから、できたけど、今思えば、ブラック勤務だよ。

それを2ヶ月続けた。給料は、手取り68万円。だけど、携帯電話の請求が12万円。瓦礫の中を移動するから、車の修理に20万円くらいかかって、結局は、激務の割に、大したことはなかった。

被災地住民からの差し入れ、ありがたかったよ。配給の食料が食べきれないからと、おすそ分けしてくれたり、ほんと、貴重な経験をさせてもらった。

JR神戸線の復旧までの期間だったけど、忘れることはできないよ。

あの頃、知り合った人達は、元気にしてるのかな?

時間的余裕と金銭的余裕があれば、訪ねてみたいと思ってるけど、もう20年。

あの頃は、ほんと、お世話になりました。




 
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         (最終更新:2017年09月12日(火)23時16分)
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